神聖な行為?
神聖な行為?
朝のゴミ拾い、
継続しています。
たまにやらなくなる時もあります。
雨の日はやりません。
雨上がりは、迷います。
紙系が水を吸って重くなっているから。
人が多い時はやりません。
ゴミを捨てる人を悪いとは思っていませんが、
そういう人の前でゴミを拾うとその人に罪悪感を抱かせてしまうかもしれず、
もしそうなら私自身が心苦しくなってしまうため。
↑これは気を使いすぎな部分もありますが、
私自身が心地よくする方法の一つでもあります。
今朝は、
直観的にゴミ拾いしよう、
という感覚がやってきました。
その後、
雨上がりの光景を見て、
ちょっとやめようかと思考が動きました。
それよりも神社参拝しよう、
という思考が被さってきました。
これも自我(思考)の罠で、
あたかもゴミ拾いよりも神社参拝の方が神聖であるかのように勘違いしています。
神聖さはどこにでも宿ります。
場所や行為ではなく、
在り様にです。
存在が、
そうなのです。
その存在が行えば、
どんな行為でも神聖になりえます。
その存在として行わなければ、
たとえ神社参拝でも神聖になりえません。
武道でも、
アスリートでも、
お店の店員さんでも、
道端ですれ違う人でも、
美しい人は、美しいのです。
表面的なことは、
全く関係がありません。
それでいて美しさは、
表面に現れ出てきます。
今朝は結局、
ゴミ拾いしながら神社参拝していきました。
選ばないという選択肢もあるのです^^