とりとめのない思い
とりとめのない思い
アメリカで警察官が黒人をを射殺したとのニュースが出ています。それに対し、デモが起こり、その現場で今度は複数の警察官が撃たれ、何人かが亡くなったとのことです。
偏った見方で育てられ、蓄積し、爆発する。その連鎖は、続く。警察の奴ら仲間を撃ちやがった、許せねー。そして事件が起き、今度は、黒人あぶねー、やっちまえ、なんてことになっていく。
どこかで、止めなければならない。
止まらない流れは、自分の命で仲間が報われるのなら、自分の命をもって、訴えたいことがある。それが表面に見えるテロとなる。
今度は何?そんな組織を一掃取り締まりだ。あるいはミサイル一発ぶち込んでやれ。
終わりのない螺旋。
その最たるものが『戦争』
国でも、県でも、地域でも、学校でも、チームでも、親族でも、家族でも、夫婦でも、自分自身でも本質は同じです。
ディベートして勝てば、正論をはけばいいというものではありません。
復讐に救いはありません。あるのはひと時の満足、優越感だけ。
世界を変えるのに必要なのは『愛=赦し』対極の無いものです。二元論の世界においては対極が生まれ、そこにおいて愛の対極にあるのは『おそれ』です。
*理屈で理解したい方は量子力学を学ぶといいと思います。
愛の表現をしない人は何かを恐れている。
少しの間、性のことや、スポーツのことや、テレビ・ゲーム・スマホなどから意識を外しましょう。
それらによって分裂させられていませんか?
矛先を向けさせないために北方領土や尖閣や竹島という火種を残したのは何でしょう?
どんな総理大臣が短命なのでしょう?
戦争なんて誰も喜びも賛成もしないはずのものをして儲かるのは誰でしょう?そしてソレは誰と繋がっているのでしょう?
大切なときに煙幕が張られるように不倫やスキャンダルが報道されるのはなぜでしょう?
戦うということは、勝ち負けの世界に足を踏み入れるということ。本当は勝ちのない世界、価値のない世界に入るということ。
そうではなくて、敵の無い世界を創るということ。無敵。誰にでも勝つことが無敵だと思ってた。スーパーマリオはそうだったし。でもそれは違っていました。
たとえ考え方が違っても、それでも敵ではありません。お互い学びの途中なのですから。気づきを増やせばいいと思うのです。
病気だって、それを敵と見立てるがゆえに抑え込もうとしてしまう。そしてどうなってます?
セッションでも、痛みを敵としてみなさず、調和がとれていないメッセージとして受け取ると、自然と症状は和らいでいきます。感性が開かれている方はみなさん体験でき、思い込みの不要さを体感されていると思います。
ただ、表面の言葉にも惑わされないように。
改憲草案第三章第十三条で、個人が人になっている。ある候補者はそれはやばい、と言う。調べてみると、あるサイトでは個人よりも調和を大切にしましょう、ということが書かれていた。個人よりも団体を重んじましょう、ということ。
一見いいことのように見えなくもないけれども、やはり危うさを含んでいます。解釈の仕方が違うのかもしれない。そんなことはない、という声が聞こえてきそうです。
もっとわかりやすくしてほしい、という思いもあります。
目には目を、、、を間違って解釈されている方がほとんどです。当然、やられたらやりかえせ、ではなく、目をやられたらやり返すのは目だけにしておけ、でもなく、目をやったら目をやられる、でもないと感じています。
聖書も、間違った解釈ばかりだと感じています。
でもあんな文章で解釈次第で変わってしまう、探求心を持たせるため?わかりませんが、憲法はわかりやすくしてほしい。率直に、守るために全力は尽くすが責めることは絶対にしない(個別的自衛権でいいような気もしますが)とか。
理想論だ、と言ってくれる人がいます。そう、理想ですよ。その理想に向かって歩みを進めるんですよ。あなたも一緒に。
まだまだ少数ですが、気づいて、行動してくれる人が増えているのも観じます。