特別なものと、全てを包み込むもの
特別なものと、全てを包み込むもの
先日、また鍵がなくなりました。いつものように台所のテーブルの上に置いていたのですが、乱雑だったテーブル上がきれいになっていたのです。
私が鍵と一緒に置いてあったUSBを使おうと思った深夜に気づいたので、家族は就寝中。どこにあるか訊くことができません。その日の作業はあきらめることになったのです。
翌朝訊いてみると、ビニール袋の中に子供のおもちゃなどと一緒になってしまってありました。
さて、ここからが本題。
上記のような状況で、私はどのような反応をするのでしょうか。
ずーっと前の私
なんでここに置いてあったのにないんだよー。誰だよー。ぷんぷん(怒)
数年前の私
テーブルの上汚かったからなぁ。誰か片づけてくれたんだな。ありがたい。今日はあきらめよう。
そして翌日。
そこにあったかぁ。見つけられなかった自分も洞察力がなかったな。しょうがない。
取り組み続けた私
あ、ない。ま、いっか。明日訊いてみよう。そしたらなにしよっかな。
ずーっと前の私は、私を正当化します。『私』が正しい、間違っていないことを証明しようとします。それを前提としたディベートを仕掛けたりします。
自我の大好物です。
数年前の私は、ポジティブシンキングです。物事の良き面を探します。「いい」という意味づけをします。あるいは、自分を責めます。
どちらにも共通するのが『罪を創る』ということです。
他の誰かか、自分を責めてしまうのです。
愛の選択肢は『赦し』一択です。物事に対して価値判断をくだしません。罪を創りません。特別な愛ではなく、全てを包み込む愛です。文字の上では同じ愛ですが、その中身は全く違うものです。
表面的にはどんな行動・言動になるかはわかりません。その芯に在るものが大切です。どんなことをするか、よりも、どんな心でするか、のほうが大切なのです。
いつも穏やかな気分で。
心地よく。