盛岡自然整体-aru- 真理・スピリチュアル・癒し・真実についてのページ
私に提供できること
今までの数年間、私が探求してきたことはカラダの症状を改善させることだけではありません。
ランナーだった私は、症状をなくすことで心地よく走れるなるようになることを求めていました。そしてそれを叶えることができなくなってからは、その求めていたことを提供できる人になりたいと思って取り組んできたのです。
そうして『カラダの症状を改善させる』ということを探求しており、瞑想と出会い、本来の目的を思い出したのです。それは『カラダの症状を改善させる』ということではありませんでした。
『カラダの症状を改善させる』ということは、本来の目的の過程でしかなかったのです。
それに気づいてからは、症状を改善する、は通過点でしかなくなったのです。ほんとの探求はそこから始まりました。求めたのは『幸福と平穏』です。
応援すること
私に提供できること、とても意義のあることかもしれませんし、大したことではないかもしれません。もうそれは、受ける方の受け取り方次第になってしまうものですから。受け取るタイミングによっても変わってきます。理の無いことをすることはできません。コントロールすることはできません。
私は、ただひたすらに真理の探求に取り組み、探求から探究へと変化しました。本を読んだり、瞑想したり、実践したり、味わったりしています。間違うこともあります。たくさん気づきを得ています。
そうして得たインスピレーション・気づき・体験をいらしてくださった皆様にシェアしています。何が自分の生き方の指針となるのか、探し求めている方にとっては、私のような存在は大いに意義のあるものだと思います。数年前の私は、現在の私のような人に会いたいと思っていましたし、実際に会いに行ったりコミュニケーションを取らせていただいていました(今でもとらせていただいています)。
答えは外側にはありません。私が与える、なんてことはできないのです。そのためのヒントとなることは提供できるかもしれません。でも、気づくのはあなた自身です。ご自分で、答えに気づくのです。それを肉体を卒業する間際に得るのか、10年後に得るのか、3年後、1年後なのか、今なのか。時間を短縮する手伝いができます。お手伝いです。
私が提供できるのは『応援すること』あなたを励ますこと、なのだと思います。
2016.2
レシピの提供
盛岡自然整体-aru-が提供できることととは、料理を覚えたい、という人にそのレシピを提供するようなものです。
レシピを受け取るだけでは当然不十分ですよね。それが作れるようになることが目的です。
料理が作れるようになるためには、受け取ったレシピを活用しなければなりません。ある程度料理のできる方であれば、一度そのレシピを活用すればすぐに自分のものにできるかもしれません。
そうでない方は、何度かそのレシピに目を通さなければならないかもしれません。作らなければ気づけないこともあるかもしれません。
それまでに料理を作ることをしていなかった方は、最初手とり足とり教えてもらわなければならないかもしれません。教えてもらわなくてもできるというものでも、教師に教わることで目的達成までの時間を大幅に短縮できるかもしれません。
施術も同じです。
盛岡自然整体-aru-の特徴の一つとして、ご自身でケアができるようになる、ということが挙げられます。でも、それまでには本人の取り組みや気づきが必要不可欠です。
レシピを受け取ることはゴールではなくスタートです。ご理解いただければ、その料理をおいしく作れるようになることはそんなに難しいことではありません。
2015.7
私に提供できること?
ほんとのことを書いてしまうと、私に提供できることなどというものは何もありません。
何かを学んだり、体験したり、それらをシェアしたり。そういったことができますが、ホントの部分においては提供される側もする側もいないのです。
私はただ『在る』という事だけに専心します。
そんな、何も提供しないという事が唯一、私に提供できることなのです。
2015.1
幸福と平穏の取り組み
瞑想というものを知り、さらに探求するために80冊以上の書籍を読んだり、瞑想というものを知っている人のところへ学びに行ってみたり、インターネットで情報収集してみたり、CDなどを使って瞑想してみたり、ヒーリングを受けてみたり、それを探求してみたり。。。まず、やってみました。
矛盾を感じるものもありました。私のスタイルは、とりあえずは全て『鵜呑み』にしています。そうしてどうも腑に落ちないものは吐き出してしまう、というステップを踏んでいます。
そうして私の『心』のフィルターを通し、納得できるものを精査し、それに取り組んでいきました。そうしていったら、80冊以上あった書籍の大半はいらないものとなりました。
手元に残しておきたい本には矛盾はありません。同じものを指し示していました。それが私のテーマとなっている『幸福と平穏』です。これをしなければならない、など、恐れを抱かせるものはありませんでした。
赦し、癒し、奇跡
幸福や平穏は、状況に左右されるものではありません。
何かができたから、例えばお金が増えたから幸せ、ということは当てはまりません。逆に怪我をしたから不幸せ、ということもありません。
陰陽のような二元の世界を超えた世界、一元の世界です。分離のない世界です。良いとか悪いとかの価値判断のない世界です。全ては一つ、という世界です。
私とあなた、というものは存在せず、私もあなたも同じ、という事。例えば、私があなたを責めるとすれば、実はそれは自分を責めていることでもあるので、自分も苦しいはず。
また、あなたが私に何か悪いことをしたと思い込んで罪悪感を持ってしまうことは、実は私を責めていることでもあるので、私も苦しいのです。
このように探求していくと、全ては一つだということが腑に落ちていったのです。
それが腑に落ちないのは、分離の世界に生きているからです。『私』というエゴ・自我を持っていると、他人が存在するので比較が出てきます。そうなると人よりお金を持っていると幸せだとか、人より見た目が綺麗だと幸せだとか、一時的な優越感による勘違いの幸福を感じることになるのです。
『自分が』というような思いを持たずにするボランティアは、お礼など言われなくとも心地いいものです。だから私は、いらしてくださる皆様のために一所懸命になれるし、それ自体が私の幸福であるということに気づいたのです。
私にできること、シェアしたいこと
そういった取り組みを継続し続けていくと、ほんとに幸福を感じるようになります。以前よりもずーっと穏やかにもなりました。
私は自分で言うのもなんですが基本的に真面目で気の利く子でした。その分、できていないことにも気づいてしまうのです。例えば先輩に対して気遣いができない後輩に対して怒りを感じたり、もっとうまくできると思い込んでいるにもかかわらずできない自分に罪悪感を持ってしまったり。
この世界をよりよく生きるために学んだと思っているルールやマナーを守ろうとし、それができていないほかの誰かに対して怒りを感じてしまったりしていました。
自分を正当化する表現が『怒り』となるのです。『自分』が『正しい』と、分離の世界に入ると、そこは穏やかな世界ではありえません。それらを手放していくことが、『幸福・平穏』の取り組みでもあったのです。
身に覚えのある方も多いのではないでしょうか?ほんとにまじめな方が多い、と感じるのです。真面目に取り組むのは長所です。しかしそれに囚われてしまうと、ほんとに必要なことまで押さえ込んでしまってストレスを抱えてしまったり、他の誰かを責めてしまうことになってしまうのです。そしてそのあとは罪悪感に囚われます。そこには『幸福』はないのです。
私は『幸福・平穏』に取り組み、それが観えてきています。その経験をシェアすることができ、そうしたいと思うのです。私はほんとにしたいことは抑え込むべきではないと思っています。だから、私に出来ることをして、シェアできることをシェアしたいのです。